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[2010.03.02]NEW ENTRY

報徳教育部より  「今月のうた・ことば」

三月のことば
小人は今日の勤功をもって昨日の衣食を補う

君子は今日の勤功をもって明日の衣食を補う
 小人と君子はその時その時の行動としては同じことをしているのかもしれません。このことばは小人と君子の違いを端的に表しています。
 小人や君子ということばは論語の中に出てきますが、本校ではなじみの深い金次郎像を思い出して下さい。背中には薪を背負い、手には書物を持っています。金次郎が読んでいるのは『大学』という書物といわれています。『大学』はいわゆる四書五経の一つで、四書とは儒教の経典である四つの書物『大学』『中庸』『論語』『孟子』です。五経とは、儒教において四書とともに尊ばれる五つの経書、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』です。少年金次郎はこういった書物を真剣に勉強し、独自の思想を形成して行きました。
 論語では、君子とは立派な人、小人とはその反対の人を指します。君子も小人も一生懸命に働くのですが、その対象が異なります。無計画にその時その時を過ごしてしまうと、生活にも心にも余裕が無くなり、借金ができてしまいます。そしてその借金を返すために一生懸命働かなくてはなりません。これは小人の生き方です。
 それでは、立派な人はどのような生き方をするのでしょうか。日常の生活を支えるための働きと共に、自分の将来や世のため、人のために役立てるように少しずつ蓄えをしながら、計画性をもって生きる生き方でしょう。
 報徳思想では先ず誰しも分度を立てて、その分度を守ることが基本になります。自分の収入に応じてどれくらいの生活をするのか支出を決め、いくらかは必ず将来や何かあったときのために蓄えて行かなくてはなりません。しかし、分度を守るのには勇気や決断、自分を厳しく律することが必要です。ここで、つまり分度を守るという点で誤ってしまえば昨日の衣食を今日の働きで補う生き方に陥ってしまいます。
 たとえ僅かでも将来のために、そして世のため、人のために役立てようと、蓄えを作るのが、「推譲」の精神です。中学生・高校生が、多くの蓄財をこの推譲に当てる必要はないのです。特に生徒諸君は、蓄財をしてこれを現段階で譲ることよりも、分度を守る心の強さ、必要に応じて譲る精神を身につけなくてはなりません。「譲る」といっても、全財産を譲るのではありません。まずは分度をたてて、日々少しずつでも「譲る」ための蓄財に努め、自分で生み出した余裕の部分を、自分の分限に応じて譲るのです。これが則ち君子の生き方です。
校歌にもある通り、「分度を立てて あやまらず」、つまり一旦分度を定めれば、分度を守ることにおいて失敗せずに、「推譲もって 耕やさむ」、推譲によって人の心を、そして世の中をより良いものにしていくよう、報徳精神を実行できればと思います。

二月のことば
夫れ分限を守らざれば、
千万石といへども不足なり

                     『二宮翁夜話~湯船の教訓』より
 人間には良くも悪くも様々な欲があります。そして、欲が原因で様々なトラブルが起こります。しかし、欲はすべて悪いということではありません。食欲は生命を維持するためにエネルギー源を確保しようという働きであり、これが正常に機能しなければ、健康な生活は送れません。また、勉強やスポーツ、文化活動にあいては「向上心」が大切ですが、これはある種の欲と言えます。つまり、欲望に流されることなく、積極的に活用し、コントロールしなければなりません。
 人間の欲望はつきるところを知らず、欲望の赴くままに生活すると、贅沢がどんどんと進み、お金はいくらあっても足りません。そこで分限、つまり分度を定めて、何事においても一定の範囲内で済ませば自分の生活でトラブルになることはありません。しかし、その分度は自分に定めるのではなく、積極的に余剰を生み出してこれを世のため人のために役立てようというのが報徳思想です。
 二宮尊徳は江戸時代に生きたので、石高を例にした話が多く残っています。そして、百石の給料がある人は五十石で生活して残りの五十石を余剰として他のために役立て、千石の者は五百石で生活して残りの五百石を余剰として他のために役立てるように教えました。これが「分度推譲」です。しかし、分度を定めてこれを守るのは、わかっていてもなかなか難しいことです。だからこそ欲望をコントロールできるように訓練しなければならないのです。
 さらに「分限=分度」という考え方は、このような経済的なことに留まりません。例えば、お風呂に入るときは、大人が湯船の中に立ったまま、「なんだこの湯は、浅すぎて膝にも満たないではないか。」と肩に湯を掛けながら不平を言うのは、「譲り」の気持ちに欠けています。大人が立ったままで肩までつかる湯船では、子供が入浴することはできません。湯船というものは、大人は屈んで入って肩まで湯につかり、子供は立ったままで肩までつかるものであり、大人にも子供にも「譲り」が必要です。このようにそれぞれが「譲り」の精神を発揮して物事をうまく進めることは中庸といいます。以上、『二宮翁夜話』の「湯船の教訓」という有名な下りの要旨です。
 「譲り」、つまり「推譲」の精神が無ければ巨額の富もその場を離れず、人々の役に立つことはありません。以前にも言及しましたが、中学生や高校生が金銭的な「譲り」に重きを置くよりも、先ず推譲の精神を身につけるべきです。それには、自分の時間や労力を提供して他のために役立てる訓練が必要です。ある種、犠牲的精神です。分度を守る勇気と譲りの気持ちを身につけること、これがなければ様々な人からの徳にも報いることはあり得ません。従って、これこそが報徳生の至上命題であると私は考えます。

一月のことば
千里の路をいかんと欲する者は
須らく先ず脚下を定むべきなり

 一里とは、『尺貫法で、距離を表す単位。一里は三六町で、約三.九二七キロメートル。』つまり、千里とは、約4千キロの距離です。「千里の路を行かんと欲する」と言っても、実際に4,000キロの道のりを進ということではなく、気が遠くなるほどの遠い距離と言うことです。また、これは場所的な移動のことだけではなく、難しい勉強、難関大学への進学、膨大な量の仕事を仕上げるなど、私たちの生活の様々な分野にあてはめることができます。
 二宮金次郎は、天明7年(1787年)7月23日、相模国足柄郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)に生まれましたが、近くを流れる酒匂川はたびたび氾濫し、人々の田畑を奪い、流域の村民たちに多大な被害を与えていました。そんな中、金次郎一家も生活が徐々に苦しくなり、14才で父が亡くなり、そしてその後を追うように16才で母が病気で急死、その直後に酒匂川が再び氾濫して、6反8畝の田地が土砂に埋まってしまいました。2人の幼い弟と共に生活のすべが無くなり、金次郎以下3人の兄弟はそれぞれ親戚に引き取られ、一家離散という状況になってしまいました。その時、伯父万兵衛宅に引き取られた金次郎は一家再興を決意し、並々ならぬ苦労の末、文化7年(1810年)、念願の一家再興を果たしました。さらに、奉公していた服部家の立て直し、桜町領の復興などを始め、多くの村や領土の復興を成し遂げ、報徳仕法の確立へと発展していきました。
 士農工商の厳しい身分制度の下、農民である金次郎はこのような武家屋敷の復興や武士階級に入って領土の復興を手がけるのはとても大きな仕事でありました。「千里の路を行かんと欲する」も同様のことでした。では、金次郎はどのようにしてこの大仕事を進めたのでしょうか。その要とも言える最も大切なことは何だったのでしょうか。
 今月の言葉はさらに次のように続きます。

 何を脚下と謂う。分度是なり。分度一たび定まれば、則ち荒蕪以て墾くべきなり。負債以て償うべきなり。衰国以て興すべきなり。

 「脚下」はつまり「分度」であり、すべての基本は「分度」を定め、これを守ってことに当たるということです。報徳仕法の原点はやはり「分度推譲」です。服部家の立て直しも桜町領の復興も、その他の仕法もすべて分度を定め、その分度を確実に守ることによって実現していきました。
 私たちは誰しも、それぞれの立場で為すべきことがあります。社会人は社会人として、学生は学生として、その務めを果たすべく「分度」を定め、これに従って生きて行かなくてはなりません。新年にあたり、それぞれの分度を再認識し、これからの1年、有意義に過ごしましょう。


十二月のことば
男 至誠なければ女気を含み
女 至誠なければ男気を含む

 男は男らしく、中学生は中学生らしく、高校生は高校生らしく。このような言い方をすれば抵抗を感じる人が多いかもしれませんが、「らしさ」とはどういうことででしょうか。これはそれぞれの特性・。持ち味を存分に発揮するということです。つまり、報徳で言う「徳」を及ぼすことであり、「分度推譲」を実戦することであります。
 一台の乗用車を作るのにどれくらいのパーツが必要なのか知りませんが、多数のパーツのどれ一つ欠けても完成した車はできず、そういった車はどんな大事故を引き起こすかわかりません。すべてのパーツが完全に機能してこそ、安全で世の中の約に立つ車になります。
 また、自動車工場の生産ラインでは、それぞれの持ち場にいる人が、自分の役割を完全に果たしてこそ、その工場の車を世に送り出すことができます。
 人間社会は工場よりもずっと大きいですが、一人一人の人間が存分にその特性を発揮しなければならないのは工場と同じです。乗用車に例えればパーツが多すぎて一つ一つのパーツの重要性が薄れて思われるかもしれませんが、決してそうではありません。人間も一人一人がその本分を理解して持ち味十分に発揮できれば、社会にゆがみが生じます。
 つまり、至誠を持って物事を実行しなければ、それぞれの持ち味を発揮できず、それそれの役割を果たすことはできないばかりか、別物に見えてしまうということを端的に表したのが今月のことばです。男であれ女であれ、中学生であれ高校生であれ、何事も誠実に実行してれば個性=自分らしさを発揮し、徳を周囲に及ぼすことができるようになるのです。
 以下、『二宮翁夜話』より。

 翁曰く、我が道は至誠と実行のみ。故に鳥獣虫魚草木にも皆及ばすべし。況んや人に於いてをや。故に才知弁舌を尊まず。才知弁舌は人に説くべしといえども、鳥獣草木を説くべからず。鳥獣は心あり、或いは欺くべしといえども、草木をば欺くべからず。

 現代語に改めると次のようになります。

 私の道は、至誠と実行のみである。だから、鳥獣・虫魚や草木にも及ばすことができる。まして、人にあてはめるなど簡単なことだ。才知や弁舌は不要だ。弁舌で人を説き伏せることはできても、鳥獣・草木に説くことはできないから。いや、鳥獣なら、心があるからだませると言う人がいるかもしれないな。しかし、言葉で草木をだますのはどうだ。できないだろう。

 至誠を以て「らしさ」つまり個性を作り、これを説くとして周りに及ぼす生き方を模索しましょう。


十一月のことば
元来わが身わが心、
天地のものにして我ものにあらず

 私たちは誰一人として単独でこの世の中に存在してはいません。水を飲み、空気を吸い、太陽の光を浴びて、さらに肉や魚、米や野菜、そして果物など、他の生命をいただいて自分の命を繋ぎ、成長します。身の回りのあらゆるものとの関わりの中で初めて生きていけるのです。
 また、私たちの身体の組成を科学的に見れば、自然界に存在する限られた元素の結合体です。つまり、私たちは身体も心も天地自然から与えられたものとわかります。そしてこの一回きりの命を与えられたことに対して感謝の気持ちをいだき、感謝する行き方をしましょう。
 今月のことばはさらに、

我身と我心、我ものならざる事をしりはらべらば
人として不足なし不自由なり

 と続きます。自分の身体と言えども、天地から与えられたものであり、天地からの借り物であると考えれば、粗末に扱うことはできません。大切に扱い、成長させましょう。その気持ちがあれば不足も不自由も感じないものです。あるいは少々のことは我慢できます。
何事も事の足り過ぎて事足らず
徳に報ゆる道の見えねば

 生きている事、様々な人から授かる徳、あらゆる食べ物、私たちにとってかけがいのないものです。すべての基本は感謝です。そして何よりもその気持ちを行動に表しましょう。
 天地から与えられたこの命、この身体、天地の徳に報いる生き方を!


十月のことば
遊楽、分外に進み、勤苦分内に退けば、
則ち貧賤其の中に在り

貧富訓
遊楽、分外に進み、勤苦、分内に退けば、
則ち貧賤其の中に在り

遊楽、分内に退き、勤苦、分外に進めば、
則ち富貴其の中に在り

 今月のことばはこの「貧富訓」から引用しました。分内、分外、と耳慣れないことばが出てきますが、「分度推譲」が貧富訓の基本になっており、分内とは定められた分度の内側、分外とは定められた分度の外側ということになります。
 報徳では、お金、財産、その他、自分が持っている全てを使ってしまうのではなく、今日のものを明日のために、親は子のために、そして平時は将来の異変に備えて「推譲」することの大切さを説いています。
 お金や財産など経済的なことで言えば、分内とは平時の生活に必要なもの、つまり日常の生活費、経営費、教育費など、定期的な出費があります。また、不定期なものとして、交際費、娯楽費なども分内に含めます。
 分外とは平時の生活以外のために備えおくべきもの、いわば備蓄のことです。分外を、何かあったときに備えて自分のために備蓄する部分と、他人や社会のために使用する部分に分け、前者を「自譲」、後者を「他譲」と言います。
 遊びが過ぎてせっかく苦労して蓄えた貯金にまで手をつけ、仕事も休み休みになる、これは「遊楽分外に進み、勤苦分内に退けば」の状態であり、やがて生活に困窮するのは目に見えています。
 私たちはその逆、つまり遊びは定められたお小遣いの範囲に収め、仕事に、そして学生である皆さんは勉強やクラブ活動に精を出しましょう。これが「遊楽分内に退き、勤苦分外に進めば」の状態であり、こうなれば「則ち富貴其の中に在り」。自ずと様々な点で余裕ができ、豊かな生活につながるのです。
 しかしここは、遊びすぎない、そこそこでやめておく、つまり分度を守る心の強さが必要です。己に克つ心、「克己心」を持つことが「分度推譲」の始まりです。

九月のことば
我が道は勤倹譲の三つにあり

 「我が道は至誠と実行のみ」、「我が道は恕をもって要とす」、「人道」、「譲道」、これまで紹介してきた報徳のことばの中には、「道」のつくものがたくさんあります。道とはそもそも、どういうことなのでしょう。一般に人や車などが往来し、通行するところ、つまり道路や通路という意味もありますが、ある目的に至るための筋道、道程、過程という意味もあります。
 それでは尊徳先生の説いた道はどこへ通ずるのでしょうか。「報徳一日一訓」には「人ためは 善事なり 人のためを道と申す」とあります。世のため人のために尽くし、誰もが平和で豊かな生活が送れるような世の中を実現することが尊徳先生の「目的地」ではないでしょうか。尊徳先生がどのような思いで「道」ということばを使われたかはわかりませんが、私利私欲が見え隠れする余地はありません。全てこの「人のため」に向かう道です。
 この理想の世の中とも思える目的地に至るためには、「勤、倹、譲」が不可欠であるというのが今月のことばです。
 「勤」は勤勉の勤。全力を集中してまじめに、今なすべきことに取り組むということです。そうすることによって努力、忍耐、克己心が培われます。授業であれ、クラブ活動であれ、真剣な取り組みなくして何も身につかず、自分の目標があるとしても達成できません。
 「倹」は倹約の倹。あらゆる動植物は生命体です。どんなに小さいものでも一旦世の中に出れば命であります。それを無駄にしない、大切にするという心です。もちろん自分の命も大切ですが、「人のため」に向かうのですから、周囲の人のことも同様に大切にしましょう。
 更に、人には人格があるように、報徳では物に対して「物格」を認め、同じく大切にしようと教えています。私は機械ものが大好きです。望遠鏡、得意、カメラ、携帯電話やコンピュータ、特に精密機械や光学機器が好きなのですが、これらは全て人間の英知を結集して作られるものです。長い歴史の中で、数知れない多くの人々が努力して作られたものです。ものには敬意を払って大切にしたいと思います。
 「譲」は推譲の譲。毎月のことばの中でもたびたび取り上げてきました。

人道は譲道によりて立つものなり

奪うに益なく、譲るに益あり
譲るに益あり、奪うに益なし
 自己主張のみでなく、他者の立場に立ってものを考えるということです。そこから真の友人関係、人間愛、協調性が生まれ、豊かな人間性が養われるのです。
 勤、倹、譲が報徳の三本柱です。この道を歩んでこそ、私たちの目的地、「誰もが平和で豊かな生活を送れるような世の中」に至るのです。


八月のことば
奪うに益なく、譲るに益あり
譲るに益あり、奪うに益なし

是れ則ち天理なり ~ われ常に
               「奪うに益なく、譲るに益あり
                譲るに益あり、奪うに益なし」
               是れ則ち天理なりと教ふ。
               能々玩味すべし。
 二宮翁夜話の一節です。二宮尊徳は、譲ることこそ世のため、人のためになるが、奪うことには一切良いことがないということを、常に「天理」として教えていました。
 第二次世界大戦後大いに経済復興し、世界でも有数の豊かさを誇る国になった日本ですが、21世紀に入ってその現状はどうでしょう。アジア諸国や中国、インドなどの台頭により、日本の製造業の国際的競争力は低下し、大きな不況を招きました。その結果、殺人事件や詐欺事件、偽装事件、いじめや自殺など、痛ましいことが多発しております。こういった事件に共通するのは、物であれお金であれ、あるいは命であれ、全て他者の何かを「奪う」ということです。
 たとえば他人の財産を「奪う」と、一見その時自分は豊になったように思えるかもしれませんが、このような方法で富むことに価値があるのでしょうか。さらに、「奪われた」側はどうなるのでしょうか。これを思わず「奪」に走れば、禽獣則ち鳥や獣と同じになるのです。
 私たちはそれぞれ社会的立場が異なり、暮らしぶりも様々です。そういう中で、一人一人が分度をたてて、その分度を正しく守って生活してはどうでしょう。大小を問わず、経済的にも精神的にも余剰を作り、これを他人に、そして社会に譲ればどうでしょう。きっと物心共に豊かな世の中になるでしょう。
 本校の校歌にこのことばが盛り込まれています。
   「分度をたてて あやまらず、推譲もって 耕さむ」
 私たちは一旦分度を定めればその用い方や限度をあやまることなく、推譲の精神をもって自分の心を耕し、世の中を耕すよう努力しなければならないのです。
 奪うことに何の利益もありません。それよりも分度を守って余剰を作り、物心共に「譲る」精神が大切です。そして、この「譲」を実戦することは「譲道」といわれ、二宮尊徳が最も重視したことです。

 人道は譲道によりて立つものなり(五月のことば)



七月のことば

商法は売りてよろこびて
買いてよろこぶようにすべし

 商業とは「生産した品物や仕入れた品物を売って利益をえる事業。」(明鏡国語辞典)ですが、大きな利益を得る為には、少しでも安く仕入れて少しでも高く売らなければなりません。これが行き過ぎると粗悪なものでいかに素晴らしいものとして販売するか、というところに目が向き、社会的に様々な問題が生じています。
 また、商品を仕入れるときには仕入れ値を少しでも安くしようという気持ちが働くのは自然かもしれません。しかし、これが行き過ぎると、生産者は採算が合わなくなり、苦しめられることになります。
 今月のことばは、「報徳一日一訓」から引用したものですが、そこには次のように解説されています。

  本当の商売の道は、売った方も買った方も、ともによろこぶようにする
 ところに、成り立つというのである。いいものを買った、いい人に買って
 もらったとするところに、本当の商業に生きる人のよろこびがある。

 第2次世界大戦後、東欧諸国は経済的に大変苦しい状況にありました。そこでヨーロッパの先進国は、通常の国際市場価格よりも高めに設定した価格で、継続的に農産物や手工業品などを取引し、発展途上国の自立を促すという運動を展開しました。これをフェアトレード~公平取引~といいます。
 国や地域により市場価格は異なります。元々価格の安いところからさらに仕入れ値を安くして取引するのではなく、経済的に余裕がある分、先進国が逆に高値の価格で購入すれば売った方にはそれだけ大きな利益が生まれます。この価格は先進国にとっては決して高いものではありません。こうすれば売った方も買った方もともに「よろこぶ」ことができます。
 さてこのフェアトレードという考えの裏側には、報徳でいう「推譲」の精神があるのではないでしょうか。先進国が持つ経済的な余力を経済的に苦しい人々に「譲る」ことができれば、ともによろこぶことができます。
 今月のことばは、商業のあるべき姿とともに、「譲る」ことの大切さが込められていると思います。「譲る」ということは自分のためだけを考えるのではなく、何か他人のためになることを実践することです。そして、次代を担う中学生、高校生には是非とも身につけていただきたい考え方です。



六月のことば

たとひ明日食ふべき物なしとも、
釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて、
餓死すべし。

 スッと背筋を伸ばした、「凛」とした立ち姿、このような姿勢は見るととても気持ちの良いものです。そして、姿勢はその人の心を表します。「凛々」とは勇ましいさまを表し、「勇気凛々」などと使います。以前は本校体育館の正面左上に、「露堂々」と大書されておりましたが、私はこのことばが好きでした。
 二宮尊徳が生きた江戸時代には、幾度となく凶作が全国を襲い、多くの人が困窮の中に生きておりました。天明2年から7年にかけては全国的に農作物の不作が続き、特に天明3年の浅間山噴火の影響で起きた冷害により奥羽地方は大飢饉となり、多数の餓死者が出ました。今日食べるものにも困る。このような状態が何年も続くと、「どうせ明日食べるものがないのだから、・・・」と次第にあきらめの気持ちが強くなっていくのは当然かもしれません。
 しかし、そのような中でも恩に報いる気持ちを忘れてはいけません。今月のことばは二宮翁夜話の一節から引用したのですが、夜話では次のように続きます。

  是れ今日まで用い来りて、命を繋ぎたる恩あればなり。これ恩を思うの
 道なり。このこころある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし。

 明日食べるものがなくても、これまで自分の命を繋ぐために用いてきたお釜、お膳、お椀をちゃんと洗い上げて、その後に初めて餓死せよと、あくまでも堂々と、そして厳しく力強く、どんな状況にあっても恩に報いなくてはならないと教えています。恩に報いるということは人に対してだけでなく、お膳やお椀といった物に対しても同じです。
 報徳では「敬物」といって物を敬い大切にする教えがあります。人に人格があるように、物には「物格」を認め、様々なものが私たちの生活に役立ってきたことを恩に考え、これに報いるつもりで物を大切にするようにということです。
 冒頭に述べたように心は姿に現れます。明日食べるものがなくて餓死するような状況でも恩に報いることを貫く、凛とした心が現れるとそれはすばらしい姿になるのでしょう。こうなるよう心して日々を過ごしましょう。



五月のことば

人道は譲道によりて立つものなり

報徳学園校風三則の一つに「分度推譲の美風を養う」とありますが、この分度推譲の精神を実践することが譲道です。「譲」とは「譲る」ことであり、日常生活の様々な場面でこの「譲」が必要とされます。簡単なことでいえば電車やバスの中でお年寄りや小さな子供を連れたお母さんに座席を譲ることであり、朝の通学路で出勤のために駅に向かっている人に道を譲ることであり、親が子に財産を譲るなど、様々なことが考えられます。
そして、「譲」は単に個人レベルのことだけではなく、会社や国家等のあらゆる集団・組織にも同じことが当てはまります。国際的な競争がますます激しくなる現代社会において、企業や国家が自分の利益だけを求めて「譲」の精神を忘れると争いや摩擦が絶えません。

人間の行動は社会の中で「譲」と「奪」に分かれてしまいます。二つの道が分かれるのは、理性と感情によるといわれます。人間は感情のままに、すなわち本能で行動すれば、他人から奪う「奪」の道に、反対に、感情を抑えて理性で行動すると、「譲」の道に入ることになります。
≪北海道報徳社『推譲で道を開く 明るく豊かな社会を目指して』より≫

人間の手はものをつかんで手前に、つまり自分の方に引き寄せることもできますが、同じ手で向こうに、つまり他人の方へものを押しやることもできます。鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なようにしかできていないのです。
欲しいものを無節操に手に入れようとするのが「奪」であり、感情にまかせて言いたいことを言ってしまえば相手を傷つけ、争いが起こります。
 一方、皆が道を譲り、言葉を譲り、気持ちを譲れば、安心な世の中になり、企業が利益を世の中に譲れば社会貢献であり豊かな生活につながります。親が財産や経験、そして生きる知恵を子供に譲れば子供は豊かな人生を送ることができます。
これが「奪」と「譲」です。そして「譲」は人間にしかできないことであり、だからこそ人道というものは「譲道」が大前提となるのです。平和で豊かな生活を送るためには、私たち人間が生活そのものを「譲」によって組み立てていかなければなりません。
他人になにがしかのものを譲るには、やはり大なり小なり「自己犠牲」が伴います。手間や時間がかかるかもしれませんし、お金や物品が必要になるかもしれません。こういったことに対応するために物質的にも精神的にも平素から蓄えを作り、備えるのが「分度推譲」です。
皆さん中学生、高校生はまずは精神的な、つまり気持ちの上での「譲」、これを実践して心に余裕を作り、後々本格的に「譲の道」を実践できるように備えてください。


四月のことば


 春の野にめだつ草木をよく見れば


 さりぬる秋に実るくさぐさ

 春。草木が一斉に芽立ち、希望を感じる季節です。本校も多くの新入生を迎え、そして在校生は1つずつ学年が上がり、新たな出発を迎えました。長い冬の間厳しい寒さに耐え、ぐっと力を蓄え、春の暖かい日差しと共に草木は一斉に芽を出します。入学試験や学年末考査で、そして全国選抜大会などでぐっと力を蓄えた生徒諸君も、同様に今後の大きな成長を予感し、希望にあふれています。
 しかしこの草木についてよく考えてみると、過ぎ去った昨年の秋に実った種があります。これは一つの結果でありますが、これが原因となって、つまり種となって次の年の芽立ちとなります。
 春に芽吹いた種は天地の恵みと多くの人々の努力によってようやく実りを迎えます。これは喜びであると同時に一つの生命の終わりでもあります。この命を受け継いで次の命があるのです。
 ここに命の尊さと共に、何者も単独では存在し得ないということが理解できます。自然の恵み、無数の人々の「おかげ」をもって現在の自分があり、今後の成長があります。だからこそ自然や他者を大切にしなくてはならないのです。
 報徳思想の基本は感謝です。身の回りのあらゆるものから与えられた徳、つまり影響に対して、誠心誠意恩返しをするということでしょう。「ありがとうございます」と言葉で述べることはもちろん大切ですが、それに相応しい行動が伴わなくては無意味です。

       我が道は至誠と実行のみ
                                      『二宮翁夜話』
 新しい年度の始まりにあたり、報徳思想の基本を再確認し、秋の実りに向けて新たな努力をする決心と覚悟を促したく思います。


  三月のことば


 右足一歩 左足一歩づつ進み歩行するより


 速やかなるはなく 順なるはなし

 たとえば難関大学の受験を目指して勉強するとき、その道のりは計り知れなく遠いものに感じられるでしょう。英語では文法の勉強をし、多数の単語や熟語を覚え、難解な長文を大量に読破しなければなりません。かと思えば全然分野の異なる理科や数学、あるいは国語や社会の勉強もあります。何とか効率よく勉強したいものです。しかし、どの教科も一足飛びに実力をつけることはできず、地道に努力するしかありません。
 「小を積みて大となす。」報徳思想における最も基本的な考え方で「積小致大」として、二宮翁夜話にも記されています。

   翁曰く、大事をなさんと欲せば、小なることも怠らず勤むべし。
   小積もりて大となればなり。

 人生何か一つ、大きなことをしたいものです。しかし大きなことはなかなかできるものではありません。それは地道に小さいことを積み重ねるという努力をしないために、物事がうまくいかないと憂い、実は出来易い小さなことを怠っていることに気づかないからです。
 『夜話』にはこうあります。
   
   譬へば百万石の米と雖も粒の大なるにあらず。万町の田を耕すも其の業は一鍬づつの功にあり。千里の道も一歩づつ歩みて至る。

 難解大学の受験勉強といえども、動作一つ一つを分解すれば、まず鉛筆を持つことであり、ノートを開くことであり、本を紐解くという、誰にでもできる簡単なことなのです。千里の道を歩くにも、右足だけ出して歩もうとしても進むことはできません。右足一歩、左足一歩と順序よく歩みを運ぶ以外に理にかなった方法はありません。また、左右交互に歩くからこそ、足は素早く動くのです。足が素早く動くからこそ、目的地に早く到達することもできるのです。
 勉強でも、そしてやがて職に就いたときにその仕事を進めるにも、この言葉の表す精神をよくよく考えて、これを実践しましょう。


  二月のことば


 打つ心あればうたるる世の中よ


 うたぬこころのうたるるはなし


尊徳先生は数多くの農村復興を指導されましたが、桜町仕法にあたっては当初より様々な妨害を受け、大いに悩み苦しみました。そのため、成田山新勝寺にこもり、21日間に及ぶ断食祈願を自らに課します。ひたすら不動尊に祈願することにより「一円融合」の思想を確立しました。
「一円融合」とは、あらゆる物事の長所を見いだしてこれを組み合わせて一定の効果を発揮するという、いわば調和の思想です。およそ世の中は一見対立するものや対照的なものが、実は調和して成り立っているもので、天と地、男女、明暗、苦楽など、様々なものがあります。電気にはプラスマイナスがありますが、プラスだけでは電灯もともらずモーターも動きません。両方の働きがあって初めて機能するのです。
 行き詰まっていた桜町仕法も村民一人一人の長所を見いだし、それぞれの持ち味を発揮できるように配慮した結果、ようやく順調に進行し始めました。成田山における断食祈願を通して「一円融合」の思想を確立したこの頃、この道歌は生まれました。

 桜町以後反抗していた村民の一々を見れば、村内をさわがすボスだと思っていた者も、何かの用をなす有才であった。その才能を称誉し任用すればそれぞれの功を挙げる。その才能挙用と同時に反対の行動は霧のごとく消え、親のごとくに慕って来る。彼は元来敵ではなかった。この場合は打つ手もなく打たれる手もなく、握り合う手だけであった。
                                (『解説二宮先生道歌選』より)

 外交も貿易も、あらゆる交渉ごとは己を利することに立脚しており、打つ心をもって世界をながめ、打たれない用心に心を砕いているのが一般的な姿でしょう。しかしこの道歌のごとく、「一円融合」の思想を規範として和協の道を探ればまた別の世界が見えるのではないでしょうか。

  一月のことば

 我が道は恕(おもいやり)をもって要(かなめ)とす

およそ人間は、生まれたときには何も自分でできず、すべてが親や周囲の人に支えられて 生きています。その段階から成長するにつれて少しずつ自分で身の周りのことができるようになります。やがて友達や先輩後輩、学校の先生も含めていろいろな人と交わる中で、「自分のことを考える」ことから、「他人のことも考える」ことに向かいます。
相手の立場や気持ちを理解しようとする心、これが恕ですが、自分が意識しないとなかなか身に付きません。自分のことしか考えない身勝手な行動たのために数限りない問題が引き起こされています。
私たち一人一人、皆自分がとても大切ではありますが、これは立場を変えれば隣に座っているクラスメートも、クラブの後輩も皆同じことで、みな自分が大切なのです。友達同士思い遣りの気持ちをもち、上級生は下級生に思い遣りの気持ちをもって接すると、横の関係と縦の関係がしっかりとします。これは一枚の布を織るがごとくです。布は横糸と縦糸がしっかりすることによって強い布になります。
様々な争いごとや事件がなぜ起こるのかを考えると、自己中心的で、他人への思い遣りが欠けていることが非常に多く、残念に思います。社会が高度に分業化され、複雑になるにつれ、人の存在、人とのつながりが薄らいできます。食料品や衣料品からパソコンなど、先端技術を駆使して作られたものまで、どんなものでもインターネットなどを通して人の顔を見ることもなく、いとも簡単に入手できます。
人の姿が薄らぐ今日であるからこそ、「恕」が必要なのではないでしょうか。「我が道は恕をもって要とす」。時代を超えて本質をとらえる言葉です。
  十二月のことば

 田の草はあるじの心次第にて


 米ともなれば荒地ともなる


 これも尊徳先生の道歌の一つです。朝は朝星、夜は夜星をいただきつつ、農家の方は田んぼ仕事、畑仕事に精を出し、その苦労の末、豊かな収穫へとつながります。暑い日もあるでしょうし、疲れて身体が重いときもあるでしょう。そんなときにも自ら心に鞭を打って農作業を怠りません。こうした努力によって私たちの食生活は支えられ、生活を維持できるのです。努力を怠れば育つはずの米も育たず、田んぼであった土地もすぐに雑草がこれを覆い、荒れ地となります。
 そしてこの努力は農業に限ったことではありません。勉強やスポーツ、あらゆる文化活動、研究活動を含め、自らがコツコツと努力することによってのみ成長があり、成功があるのです。
私たちは様々な誘惑と戦いながら生きており、この誘惑に打ち勝って始めて物事を達成できます。以前にも引用しましたが、『二宮翁夜話』の「克己復礼」の項に、

『己に克つは我が心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨て、我が心の米麦を繁茂さする勤なり。』

とあります。「我が心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨て、我が心の米麦を繁茂さする」という力強い表現。自分自身の心に米を実らせるか、あるいはそこが荒れ地と化すか、自分自身の問題です。この道歌、そして『夜話』の力強い表現から勇気をいただけます。

  十一月のことば

 何事も事足り過ぎて事足らず


 徳に報ゆる道の見えねば

 携帯電話、メール、インターネットが急速に普及し、居ながらにして瞬時に情報を交換できるようになりました。高速道路網や鉄道網の整備が進み、空路による輸送も高速化・大量化に拍車がかかっています。24時間営業のコンビニやファーストフード店があちらこちらにできて、私たちの生活はますます便利になりつつあります。尊徳先生の生きた江戸時代にはもちろん電話もなければ人間が空を飛んで海を渡ることなど考えられず、ずいぶんと様変わりしました。衣食住満ち足りて、この後何を私たちは求めるのでしょう。
 天から授かったこの命、親から授かったこの身体。様々な人の努力によって作られた様々なものによって、また、無数の動植物の命を食事としていただいて私たちは命をつなぎ、生活を維持しております。ここに恩を感じ、徳として敬することが報徳生活の出発点です。
 私たち人間にはすばらしい可能性があり、「人格」があります。それならば生物や人々の努力によって作られるもの、つまり万物には「物格」があるべきでしょう。

『人格や物格は相互にそれを尊重することによってのみ実在する。尊重することの内容はすなわち徳である。この徳を認識しないで人格はあり得ない。』(解説二宮先生道歌選)

 私たちは利便性を追求する中で多くのものを失い、かけがえのない地球環境にも悪影響を及ぼしています。あれもほしいこれもほしいという前に、また現状に不満を述べる前に、万物が有する物格に恩を感じ、その徳に報ゆる生活を考えてみては、と思います。





  十月のことば

 翁曰く、それ天道の真理は、


 不書の経文にあらざれば見えざるものなり。

 学問は突き詰めてその真理をつかみ、世の役に立ててこそ価値があるのでしょう。しかし真理は「不書の経文」であり、目で見ることはできません。校歌の中にうたわれている「書かざる経」のことです。尊徳先生は、「天道の真理」はこの世の中のすべての現実、春夏秋冬といった自然の移り変わりや世の中の変遷から見いだせると説いています。
この、目には見えない「不書の経文」を観るには、「肉眼を以て一度見渡して、肉眼を閉ぢ、心眼を開きてよく見るべし。」と『二宮翁夜話』には書かれています。

 宮本武蔵は剣道に於いて「見(けん)の眼(め)」と「観(かん)の眼」ということを説いている。「見の眼」とはすでに形に現れたものを観る目であり、「観の眼」とはいまだ形に現れぬ以前の心を観る目のことである。~『二宮翁夜話味講』より

 目に見えるものはすべて目に見えないものによって支えられています。書物をひもといて勉学にいそしむと共に、不書の経文に耳を傾けましょう。心を落ち着けて至誠をもって事に当たることがすなわち、心の目を開くことになるのでしょう。
九月のことば

 三吉野の花も盛りはかぎりあり
 
 あらしをまたで散るぞかなしき

 これも尊徳先生の道歌の1つです。直訳すると「吉野山の桜も盛りには期限があります。嵐や風が吹かなくても数日で散ってしまうのは悲しいものです。」となります。悲しくても残念でも散るものは散ってしまいます。すべてのものは移り変わり、形あるものはいずれは崩れてしまいます。
 茶道では、どの茶の会でも一生にただ一度だと考えて常に客に誠を尽くすべきだと考え、「一期一会」と言います。同じ人であっても昨日のその人と今日のその人では何かが違い、今日の努力により明日のその人はまた大きく成長し、何かが異なります。
 横に、真一文字に引いた「一」の文字、これに思いを致してください。人生は一度しかありません。1回の授業を、部活においても1回の練習を大切にし、「この1回しかない」と考えて取り組めば、自ずと緊張感が生まれて打ち込み方も変わり、真の実力アップにつながります。
「人生二度なし。」一日、一日を大切にしましょう。



 八月のことば

 夫(そ)れ我が道は、
 
 人々の心の荒蕪(こうぶ)を開くを本意(ほい)とす。

 尊徳先生は天保13年(1842年)、56歳のときに幕府に登用されました。しかし、当初はなかなか自分の望むような仕事はさせてもらえず、月日だけが流れました。そして弘化元年(1844年)4月、ようやく日光神領の荒地復興計画を立案せよという命令を受けました。これに対して尊徳先生は、弟子たちとともに2年3ヶ月という長い歳月を掛けて84巻に及ぶ壮大な仕法雛形(しほうすうけい、雛形とはいわゆるひな形)を完成させました。この書はそれまでに各地で体験したあらゆることを基にした、仕法に関するモデルプランで、いつの時代でも、どの地域においても、だれでも応用できるものとして作成したものです。
 日光神領復興計画書作成の命令を受け、仕法雛形作成を決意したとき、「夫れ我が道は人々の心の荒蕪を開くを本意とす。心の荒蕪一人開くる時は、地の荒蕪は何万町あるも憂ふるにたらざるなり。」と尊徳先生は弟子たちに諭し、人々の心の持ち方、考え方を変えることの大切さを強調されました。荒れ地を耕して開くのは人々の行為ですが、その行為の基となるのは人々の心、考え方なのです。
社会制度や科学技術がいくら発達しようとも、これを使って世の中を動かす人間の考え方いかんによっては、平和になることもあれば、紛争が絶えないこともあります。
人間の心の改造によってのみ世の中が良くなり、真に平和で豊かな世界を実現できるのです。「心田開拓」私たちも日々、我が心の田を開拓すべく努力したいと思います。





 七月のことば

 米まけば米草はえて米の花
 
 さきつつ米の実のる世の中

 尊徳先生は報徳思想を詠み込んで多くの道歌を作られました。これもその中の一つですが、この歌を詠むと「善因善果、悪因悪果」という言葉がすっと思い浮かびます。米を蒔けば稲が育ち、なすを育てればなすが実ります。
 また、種から育って草となり、花が咲き、実を結びます。種からいきなり実にはなりません。しかるべき歳月と天地の恵み、そして人の努力があって初めて農作物は実を結ぶのです。
 尊徳先生は、幼い頃から農作業に携わり、また後には様々な形で農業指導をされましたが、その中でこれが宇宙の実相であると痛感され、その発見に大いに喜びこの道歌が生まれました。
 内容は実に単純なことで分かり切ったことのようですが、私達はこの通りに考えて行動しているでしょうか。日々善行を重ねた結果とそうでない場合の結果は大いに異なります。
 この単純明快な道理を軽視してはならぬと、尊徳先生は次の歌を詠んで戒めておられます。

      この歌ををかしく思ふ人あらば 米の実まきて麦にして見よ

単純だからと軽視せず、日々善行を積み重ねて報徳の種を蒔きつつ生活したいと思います。





 六月のことば

 一粒といえども
 
 天地人三才の徳によって生ず

 たった一粒のご飯といえども、無駄にしてはいけません。「粒粒辛苦」これは米を作る農民の一粒一粒にかける苦労はひととおりではないことを表しています。またこういった人々の苦労と共に天地の恵があって初めて農作物はできるのです。さらに食材を調理して食事を作ってくれる人の苦労、努力もあるはずです。
 まさに合掌礼拝して、感謝の気持ちをもって食事を戴くべきだと感じさせられます。そう感じるなら今日から実行しましょう。すでに実行している人も多いと思いますが、食事の前には「いただきます」、食事の後には「ごちそうさまでした」
「いただきますと言って食べるのは食事、言わずに食べるのはエサ」という人もいます。
 私たちの食べ物は、肉も魚も、そして菜っ葉もすべて生命です。感謝の気持ちを持っていただきましょう。
粒粒辛苦
春種を下してより、稲生じて風雨寒暑を凌ぎて、花咲き実のり又こきおろして、搗き上げ白米となすまで、此の丹精容易ならず実に粒粒辛苦なり。其の粒粒辛苦の米粒を日々無量に食して命を継ぐ。その功徳、また無量ならずや。





五月のことば
  克己復礼

それ人道の勤むべきは

己に克つの教なり

 二宮尊徳は農家の出身であり、農業に精通していた。そして、永く農業指導にも従事したので、自然の摂理、つまり天理と人道も農業に例えてわかりやすく教えた。二宮翁夜話には、「それ人身あれば欲あるは即ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ、堀は埋もり、橋は朽ちる、是れ即ち天理なり。然れば人道は、私慾を制するを道とし、田畑の草を去るを道とし、堤は築き立て、堀はさらひ、橋は架け替えるを以て道とす。」とあり、人間には欲があるのは当然であるが、田畑に雑草が生えればこれを人の努力によって取り去るのと同様であると教えている。さらに田畑の雑草だけではなく、堤防も堀も橋も時間の経過とともに老朽化するのは天理であり、つねに整備して使える状態にしておくのが人道である。とてもわかりやすい例えである。
 私たちの心にもさまざまな雑草が生える。勉強をしなくてはならないときにゲームや友達との遊びといった雑草が頭を持ち上げてきたという経験はないだろうか?そんな雑草は即刻捨て去らなければならない。これが己に克つということで、「己に克つは我が心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨て、我が心の米麦を繁茂さする勤なり。」と夜話にある。
 さまざまな誘惑に負けず、目的をしっかり持ってそれに向かって努力しましょう。





四月のことば

むかしまく木の実大木となりにけり
今まく木の実後の大木ぞ

 人は誰しも、今自分が必要とすることには懸命に取り組みます。今の世の中に役立てるために木を切って家を建てるのは当然のことです。しかし、私たちが暮らしているこの地球は、10年後、30年後、100年後、あるいはそれよりももっと後には、私たちが全然知らない私たちの子孫が暮らしています。この地球を大切にし、豊かできれいな地球を残して行くことは、私たちの子どもを大切にすることであり、それが人の道です。「私たちは子孫の土地を借りている。」と言ってこの大地を大切にする人たちが世界にはいるそうです。
「自分が生きているうちに立派な林にならぬことが分かっていても、親は子のために樹を植えつけるのである。目先の欲だけで働くのは、動物である。子孫後世のために、徳の種子をまくのが、人の人たる所以である。」(報徳一日一訓より)





三月のことば
いやしくも徳に報いる心なき者は

これ禽獣なり

 報徳学園の校名は、「以徳報徳」ということばに由来しています。「以徳報徳」は「徳を以て徳に報いる」と読み下します。人間は単独で生きていけるものではなく、いろいろな人との関わり、自然界のさまざまなものとの関わりの中で初めて生きていけるのです。自分自身が成長するために、また生きていくために受ける無数の影響を「徳」といい、私たちにとって最も大切な「徳」を受けておきながら、かりにもそれに報いる心がなければ、人とはいえないのです。
 私たちは皆自分自身がとても大切なのですが、他者の存在にも目を向けましょう。隣に座っている生徒も、部活動で一緒になる後輩たちも皆同じように自分が大切なのです。この大切な自分の存在、成長に不可欠な「徳」に報いる心、つまり感謝の心をもって人と接するようにしましょう。





二月のことば

山の高く見ゆるうちは勤めて登るべし

 人間、死ぬまで修行。常に向学心を持って自己研鑽に努めるべきであるとこの一言は教えている。「まだまだできていないな。」と自分自身の不足を感じる心と共に、不足を感じたときこそ成長のチャンスであり、そこからの努力が重要になる。
 二宮翁夜話では、これを山に登ることに例えて説明している。「山の高く見ゆるうちは勤めて登るべし。」の後に、「登りつむれば高き山なく、四方とも眼下なるがごとし。」勉強でも、文化活動でも、スポーツでも、自分が取り組んでいることを最後まで突き詰めなければならない。中途半端なまま投げ出すことのないようにしなければならない。
 夜話はさらにこう続く。「この場に至って、仰ぎて弥々(いよいよ)高きは天のみなり。此処まで登るを修行といふ。天の外に高きものありと見ゆるうちは、勤めて登るべし。学ぶべし。」
1人1人がそれぞれの目標に向かって努力を続けましょう。





一月のことば

我が道は至誠と実行のみ

 報徳思想の根幹をなす言葉。二宮翁夜話ではこの次に「およそ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行にあらざれば事はなさぬものと知るべし」とある。どん底の生活に苦しむ桜町の復興を成功させたのは尊徳のまごころであり、ひたすら励んだ勤労のおかげであり、また彼の指導によって、まじめにはたらいた農民自身の努力のたまものであった。決して学者の才能でもなければ宗教家の弁舌でもなかった。
 至誠つまりまごころをもって実行することの大切さがこのことばに表されている。



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