報徳教育部(今月のうた・ことば)

[2016.6.1]

今月のうた・ことば

6月のことば 
身をすててここを先途と勤むれば
              貧しきことも知らで年経ん

 
 「先途」とは、勝敗、運命の大事な分かれ目、せとぎわのことです。自分の身を捨てて、今このとき、この場所こそが分かれ目だと思って、日々やるべきことに打ち込んでいれば、貧しさを味わうこともない、という歌です。目の前のこと、やるべきことを、一途に行う、その大切さが説かれています。この歌も、他の多くの道歌と同じく、儒教の教えを農民向けにアレンジしたものです。もとになっているのは、「中庸」の一節です。

 君(くん)子(し)その位(くらい)に素(そ)して行い、その外を願わず。富(ふう)貴(き)に素しては富貴に行い、貧(ひん)賤(せん)に素しては貧賤に行い、夷(い)狄(てき)に素しては夷狄に行い、患(かん)難(なん)に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし。

 【現代語訳】
 君子(徳の高い理想的な人物)はその分限に応じて適切な行為を行い、その外を願わない。富貴な境遇にある時にはその富貴に見合った適切な行いをし、貧しい境遇にある時にはその貧しさに応じた適切な行為をする。夷狄(異民族)の中にあっては夷狄の風習に合わせた行為をして(道は守りつつも)、患難の苦しみの中にあってはその場面で必要な行為をする。そのため、君子はいかなる境遇に置かれても、(その場に合わせた適切な振る舞いをするだけであるため)不平不満の気持ちに覆われるということがないのだ。
 
君子は、立場や身分や境遇に無理をして逆らうのではなく、それぞれの立場や状況に応じた、適切な無理のない振る舞いをすればよいのだ、と孔子は語っています。富める者には富めるなりに、貧しい者は貧しい者なりに、社会で果たすべき役割というものがあります。君子というのはどのような状況にあっても、自分の身に応じた、最適な振舞い方を見出し、愚痴や不平不満を言わない存在でもありました。
貧しいときに富裕者を見てうらやんで、愚痴を洩らす。海外に行き、「日本ではこうだった」と不平を言う。この姿勢では、つまらない人生になるばかりです。己の境遇を他人と比較しても、前向きにはなれません。クラスで、クラブで、一人ひとり果たすべき役割があります。その役割は、自分が夢を描いていたものではないかもしれません。しかし、愚痴や不平不満はぐっと飲み込み、己の場所で、己のやるべきことを、精一杯がんばってみましょう。誰が見ていなくても、自分は自分の行動を見ています。

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