トップページ【学園・クラブTOPICS】

[2022.7.1]

今月のうた・ことば

七月のことば
 山寺の鐘つく僧の起き臥(ふ)しは
  知らで知りなむ四方(よも)の里人

二宮尊徳翁は多くの道歌を作っていますが、今月のことばに選んだ道歌は弘化2年(1845)、尊徳翁59歳のときに詠まれたものです。
「山寺」とは山奥にある寺、「四方の里人」とは寺がある山のふもとで暮らしている人々のことです。当然のことながら、ふもとにいる里人からは山寺で生活している僧の様子は見えません。しかし毎日決まった時刻に山寺から鐘の音が聞こえてくる。これによって里人たちは山寺の僧の生活を知ることになるのです。
この道歌について、山寺の僧の立場から考えてみましょう。山奥で生活をしているので、自分の生活は里人からは見えないはずです。朝起きるのが億劫(おっくう)なら朝寝坊をしてみたり、修行をするのが面倒になったら少しサボってみたり、周りの目がないことをいいことに自堕落な生活をすることも可能なはずです。しかし、僧としての仕事をおろそかにしていけば、どこかで里人に知られてしまいます。それが鐘の音です。鐘をつき忘れることはもちろん、つき方が変わって聞き慣れている音と違えば、仕事がおろそかになっていることを里人に気づかれてしまうのです。
さて、みなさんはどうでしょう? 保護者や先生、部活動の先輩などの前ではしっかりできていることが、一人だけのときや友人同士のときにも同じようにできているでしょうか。誰も見ていないから、注意する恐い人がいないから大丈夫、となることはないでしょうか。人は易(やす)きに流れるものなので、誰も見ていないと思えばついつい手を抜いてしまいます。しかし手を抜いたことは、鐘の音の違いに気づいた里人のように、見ていないはずの周りの人にすぐ気づかれてしまうものなのです。
七月になり、「新学年」へ進級したときに抱いていた緊張感は薄らいでいることでしょう。それとともに自分を律する心が弱くなってはいないでしょうか。そういうときには「山寺の鐘」を思い出し、気を引き締め直して自分の目標に向かって進んでいけるよう心がけてください。

←戻る

ページトップ