報徳教育部(今月のうた・ことば)

[2019.10.1]

今月のうた・ことば

十月のことば

  夫れ分限を守らざれば、
    千万石といへども不足なり

 人間には良くも悪くも様々な欲があります。そして、欲が原因で様々な問題が起こります。しかし、欲はすべて悪いということでもありません。食欲は生命を維持するための源を確保しようという働きであり、これが正常に機能しなければ健康な生活は送れません。また、勉強やスポーツ、文化活動においては「向上心」が大切ですが、これはある種の欲と言えます。つまり、欲望に流されることなく、積極的に活用し、制御ができるようにならなければなりません。
人間の欲望はつきるところを知らず、欲望の赴くままに生活すると、贅沢がどんどんと進み、お金はいくらあっても足りません。そこで分限、つまり分度を定めて、何事においても一定の範囲内で済ませば自分の生活でトラブルになることはありません。しかし、その分度は自分のためにだけ定めるのではなく、積極的に余剰を生み出してこれを世のため人のために役立てようというのが報徳思想です。
お風呂に入るとき、大人が湯船の中で立ったまま、「なんだこの湯は、浅すぎて膝にも満たないではないか」と肩に湯を掛けながら不平を言うのは「譲」の気持ちに欠けています。大人が立ったままで肩までつかる湯船では、子供が入浴することはできません。湯船というものは、大人は屈んで入って肩まで湯につかり、子供は立ったままで肩まで湯につかるものであり、大人にも子供にも「譲」が必要です。このようにそれぞれが「譲」の精神を発揮して物事をうまく進めることを中庸といいます。以上、『二宮翁夜話』の「湯船の教訓」の要旨です。
つまり「推譲」の精神が無ければ巨額の富もその場を離れず、人々の役に立つことはありません。みなさんは金銭的な「譲」に重きを置くよりも、先ず推譲の精神を身につけるべきです。それには、自分の時間や労力を提供して他のために役立てる訓練が必要です。ある種、犠牲的精神です。分度を守る勇気と譲りの気持ちを身につけること、これがなければ様々な人からの徳にも報いることはあり得ません。従って、これこそが報徳生の至上命題であるべきです。

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