報徳教育部(今月のうた・ことば)

[2016.10.7]

今月のうた・ことば

十月のことば 
  修行は要るか要らぬか、用に立つか立たぬか
    知れぬ前によく学びおくべし

 今月のことばは、『二宮翁夜話』の「柿の実」と呼ばれる段からとりました。ここで述べられているのは「因果(原因と結果)」の理ですが、勉強、読書に対する姿勢をも我々に教えてくれています。尊徳先生が、近くの木からもぎ取った柿を手に話をしている、そんな場面を想像しながら読んでほしいと思います。

 「この柿の実を見るがよい。人に食べられるか、鳥のえさとなるか、落ちて腐るか。その将来は、枝葉の陰にあるときの精力の運びにより、決まっているのだ。柿も熟してから市場に出して売られるとき、三厘になるもの、五厘になるもの、一銭になるもの、様々である。はじめは同じ柿であっても、熟し具合によってそれぞれ価値が異なってくる。これはそれまで枝にあるときの精力の運び方によるものである。天地の間の万物はみな同じである。隠れているうちに生育して、そして人に得られてからその徳を表すのである。人もまた同じである。親の手元にあるときに、身を修めて諸芸を学び、よく勤めたその徳によって一生の生業(なりわい)が立つのである。大人になってから、若い時にもっとよく学べばよかったと後悔するのは、柿が市場に売られてから、もう少し精気を運んで大きく甘くなればよかったと思うのと同じである。後悔先に立たず、とはこのことである。古人も「前に悔め」と教えている。若い者はよくよく考えなければならない。ゆえに、修行とは、要るか要らぬか、役に立つか立たぬか分からぬうちによく学んでおくべきなのだ。そうでなければ、ものの役に立たぬ。柿も枝葉の間にあるうちに太くならなければ、市場に出てからでは仕方ないのと同じである。これがすなわち因果の道理というものだ」
 
 尊徳先生の遺した著作に関して、まず驚かずにいられないのは、その量が膨大な点です。全集で36巻、別冊1巻。明治、大正、昭和中期までの個人全集としては随一です。専業作家である漱石も鴎外も及びません。しかし、尊徳先生は著述を生業とはしていません。実践家です。忙しい実務の傍らで著述を行うには、積極的にその時間を捻出する必要があります。睡眠時間は一日平均4時間だったと言われています。偉大なる実践家は、偉大なる読書家・著述家でもあったのです。
さて、幼・少年時代の先生の読書は、薪を背負いながら、臼を引きながら、伯父に叱られながらのものでした。百姓に学問は必要ないという時代や境遇に抗うように身に付けたものです。また、「親の手元にあるときに」とありますが、金次郎少年は保護されるべき対象ではなく、極貧の中で一家を支える役割を担い、弟たちを庇護する立場でした。こう考えると、我々がいかに恵まれた境遇にあるのかが見えてくるのではないでしょうか。「学生」という身分、すなわち勉強すること、学ぶこと、読書することが仕事であるうちは、選り好みせず、知った風な口を利かず、大いに打ち込んでおいてほしいと願っています。

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