[2020.2.3]
二月のことば
たとひ明日食ふべき物なしとも、
釜を洗ひ、膳も椀も洗ひ上げて、餓死すべし。
物を大切にしなければならないというのは、だれもが納得できることですが、その理由の一つがこの言葉には秘められています。そしてそれは報徳の教えの根幹を成す考え方です。
そもそも衣服を洗濯したり、食器類を洗ったりするのはなぜでしょうか。汚れたままでは次に使えないからです。しかし、お米も最後の一粒まで食べ尽くし、いよいよ次に調理する物がなくなってしまうとどうなるのでしょう。調理するものがないのだから次に釜や食器を使うことはありません。それでも、これまで使ってきた食器を洗いなさいという教えです。
物にはそれぞれ使用目的や役目があります。鍋や釜、食器にもそれぞれ機能、役割があり、それがなければ食事もままなりません。
報徳の教えでは、このような物や人が持つ取り柄、持ち味、特性を「徳」と呼びます。私たちは周囲のあらゆる物、人からこの徳をいただいて生きています。野菜や肉を食事としていただいて、食器や衣服、家屋などに生活を支えられて、まさに命をつないでいるのです。ここに命あるものだけではなく、あらゆる物にありがたいと感じる心を持てるかどうかが大切です。
私はある時期、高校1年生の報徳講話の授業で「恩を受けるとどうしますか。」と、よく尋ねたものでした。ほとんど「恩返しをします。」と答えてくれました。しかし、ここには「人から」恩を受けたときという暗黙の前提があります。前述の通り私たちは周囲のすべてから徳をいただいて生きているのですから、「人」に限定せず釜や膳、椀に対しても恩を受けていると解釈できます。恩に報いるという生き方を推し進めると、たとえ明日食べるものがないとしても、それまで命をつないでくれたことへの恩返しという点から、これらをきれいいに洗うということになります。
ものを大切にするということは私たちを支えてくれるあらゆるものに感謝するということであり、あらゆるものからいただく恩に報いる生き方なのです。そしてこれが以徳報徳~徳を以て徳に報いると言う、報徳流の生き方です。