報徳教育部(今月のうた・ことば)

[2015.9.24]

今月のうた・ことば

九月のことば

まき植ゑて時に耕しくさぎりてみのり待つ身は楽しかりけり

稲穂も色づき、今年も実りの季節がやってきました。この歌はそのまま読めば、その実りを喜ぶ歌です。まく、植える、耕す、くさぎる(草刈り)と、日々の仕事を怠ることなく勤め、その成果を待つというのはいつの時代の人々にとっても喜びでしょう。一仕事して、汗を拭きながらその田畑を眺める尊徳先生の姿が思い浮かんでくる歌です。
農作業に限らず、日々の学校生活でも、思い当たる場面はあることでしょう。授業を集中して受け、小テストにも前向きに取り組み、計画を立てた上でテスト勉強に励み、十分な手ごたえをもって試験本番に臨むことができたならば、その答案が返却されるのが楽しみに思えるはずです。スポーツでも同じことが言えるのではないでしょうか。逆もまたしかりです。自分自身で手を抜いたこと、不十分であったことが自覚できていたら、勉強にしろスポーツにしろ、結果を待つ身は楽しくないものとなるでしょう。どちらが望ましいか、言うまでもありません。
さて、この歌には題がついています。それは、あの「論語」の巻頭にある「学而編」の最初の言葉、「学んで時にこれを習う、また悦ばしからずや」という句です。非常に有名な一句ですから、ぜひともこの機会に覚えて欲しいと思います。この句の解釈は、古今、様々な儒者によって行われてきたところです。大きな差はないのですが、細かい解釈は人それぞれといったところです。筆者が大学生の時に受けた講義は、「『学ぶ』とは『まねぶ(真似をする)』の意である。手本となる人の真似をしているうちに、時宜に応じて(あるタイミングが来ると)その知識、技を習得するときがやってくる。そのときの喜びは、人間にとって無上のものである」といったものだと記憶しています。
「習」は「マスターする」という意味だ、とも伺った覚えがあります。二つあわせて「学習」となります。人間という生き物に不可欠なこの行為、あらためて考えさせられたことを思い出しましす。
尊徳先生の歌や言葉というのは、神道、仏教、儒教の三つを、自分の体験、経験で一度ろ過してから、農民にわかりやすいよう、農作業を例にとって教えとしているものが多くあります。今月の言葉も、儒教の教えを報徳風に味付けしたものとなっています。我々日本人のDNAには農作業に従事した記憶がやどっているのか、農作業の例でも十分に理解はできます。ただ、そこに留まらず、どの教えも自分の生活に落とし込んでみて、自分自身の理解をしていくことが大切です。学生時代の今と社会人になってから、子供の今と親になってからでは、同じ言葉でも受け取り方が変わってくるでしょう。

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