報徳教育部(今月のうた・ことば)

[2016.3.7]

今月のうた・ことば

3月のことば 
  奥山は冬(ふゆ)季(き)にとぢて雪ふれど
     ほころびにけり前の川(かわ)柳(やぎ)

 寒さもやわらぎ、いよいよ春めいた様子が見られるようになってきました。今月の言葉に選んだ歌は、春の訪れを詠んだものです。その内容は、字義そのままに受け取れば、まことに平凡なものです。奥山はまだ雪が積もり、ときどき吹雪にもなるけれど、山のふもとを流れる川の堤の柳は、すでに芽を膨らませはじめ、春めいてきました。これは間もなく山奥までも、春景色になる前兆であるというものです。とくにわかりづらいところはないと思います。ただ、この歌に込められているのは、報徳の大切な教えのひとつ、「至誠」なのです。
 尊徳先生は、仕法書のなかに、多くの歌を書き入れています。この歌も、多くの村落立て直し仕法書に入れられています。そこには、次のような題がつけてあります。
 「禍福のまさに至らんとするや、善も必ずまずこれを知り、不善も必ずまずこれを知る。ゆえに至誠神のごとし」
 これは、儒教の聖典『四書』のひとつ、『中庸』の一節です。よいことにも、わるいことにも、必ずその前兆があり、本当に澄み切った心でものごとを眺めれば、自ずとことの吉兆は見えてくるもの、何でも神様のようにお見通しだ、というような意味です。これまで何度も触れていますが、尊徳先生の道歌には、神道、儒教、仏教の教えのなかで、これはよい、と思ったものを農民向けにアレンジしているものが多くあります。この歌もその一つと言えましょう。夜話のなかにも、同じような言い回しがでてきます。「山も谷も寒気に閉じて、雪は降り、凍りついていようとも、柳の一芽が開きそめれば、山々の雪もみなそれまでで、ないも同然だ。(中略)今ここに、幾万両の借財があっても、何万町歩の荒地があっても、賢君があってこの道によるときは憂えるに足らない」というものです。「心の荒蕪」が開ければ、本当の荒地がいくらあってもなんてことはない、という、あの言葉を思い出させてくれます。
 勉強やスポーツで考えれば、本当にやってやろうという気持ちさえあれば、困難に見舞われてもへこたれずに、結果は自然とついてくる、心構えこそが大切だ、ということでしょうか。クラスやチームで考えれば、一人変わったな、と思える生徒が出てくれば、それはクラス全体がそうなっていく予兆だ、ということでしょう。みなさんも、集団をよい方向に導く、その最初の勢いを生み出すリーダーとなってくれることを期待しています。

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